初めてFootball スタジアム(サッカースタジアム)に入りました。
サン・シーロスタジアム!!! ミランにインテルのホーム!!
ばっちりツアーで博物館からロッカールームまで見てきた♪最高(ノ´▽`)ノ
詳細は後ほど。
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本場のサッカーのインテルACミランのサンシーロスタジアム見学ツアー内容とは?
居心地よすぎてなにもしなかった「ノリコさんの宿」ともお別れして次なるは・・・。メルズーガ サハラ砂漠で星空みてきまっせ♪ ...
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あなたはアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所についてどう考えますか?
その負の世界遺産「アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所」は今でも多くの人が訪れています。悲しみを繰り返さないため。
ポーランドのクラクフからバスで行けるところに
「負の世界遺産 アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所」
があります。
世界史の中で必ず習っているし、その悲惨さはわかっているつもりでいました。
例えば「アンネの日記」などで。
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アンネ・フランクの家で見た隠れ家の生活と戦争の悲劇とは?実際に行ってみて思った事
今日はちょっと真面目にブログを書きます。 今までヨーロッパを旅してきて感じた第二次世界大戦、いや、戦争の爪あと、悲劇を。 ...
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その現場にいくまでは・・・。
ポーランドにある「負の世界遺産=オシフィエンチム」またの名を「アウシュビッツ強制収容所」
このゲートが地獄への入り口だった「アウシュビッツ強制収容所」
第二次世界大戦の中でもっとも悲惨な強制収容所。
殺人工場。
ユダヤ人、ポーランド人、ロマ、共産主義者、反ナチス活動家、同性愛者が収容され、死ぬまで労働させられたり、即座に殺された場所。
150万人以上が殺された恐ろしい場所。
詳しくは調べればいくらでも出てくるので、そういう説明なしでただ自分が感じた事を列ねていきます。
「ARBEIT MACHT FREI」このゲートをくぐったら最後。二度と外に出れることはない。
せめてもの皮肉が「B」の文字が逆になっている・・・。
この入り口をくぐればそこは地獄の入り口。
「ARBEIT MACHT FREI」=働けば自由になる
このスローガンが掲げられたゲート。
せめてもの皮肉がこめられ、Bの文字が上下逆になっている。
高圧電線があり、脱獄できないようになっている。
もの凄い数の人々が、ただただ殺された。
同じ人間なのに。ただ人種が違うだけなのに。
楽園という名目で連れてこられ、着いた先の駅で「死」か「生」の道に即座に選別される。
なにも「真実」を知らずに「アウシュビッツ強制収容所」に連れてこられたユダヤ人の人々
着いた途端に「医者」という名がただついた人間に、2つの人間に分類される。
労働力あるものと、そうでないもの。
後者は主に子供、妊婦、老人がそう。
そのものたちは上記模型のようにまず服を脱がされ、熱いシャワーを浴びさせられた。
これはただ単に浴びたわけではない。
毒ガスがより浸透しやすくなるよう、体温をあげさせた。
こうすることで20~30分で死にいたる。
これはその「毒ガス」缶の山。当時使われたままのもの。
こんなものを何故作ったのか?
アウシュビッツ収容所に来た人達は「楽園」があると信じていたので、すべての家財道具一式を持ってきていた・・・。
すべての物を奪われた。それはお金にするため。武器にするために。
ここに連れて来られた「犯罪者以外の人」は、楽園がここにあると信じていた。
だからここで新しい生活をするために大切なものを持ってきた。
無数に集められた
眼鏡、木綿の服、義足義手、食器、生活用品、靴、それらを詰めてきたカバン。
遺体からは金になるもの、もちろん金銀歯もすべて抜き取られた。
そして写真撮影は禁止されているし、撮りたくもない、現実。
毒ガス室に連行される前にみな、髪を切られた。それは絨毯や織物を作るため・・・。
髪をとく必要さえなくなる。櫛にブラシも奪われた。
特に若い、髪の長い女性の髪は重宝された。
なぜならその髪で絨毯や織物を作っていた。
そんな髪が一室に集められていた。何十トンとある髪が・・・。
なぜ、そこまでひどい事をするの?
医者は権力を振りかざし、若い女性を集め人体実験、ひどい事をしていた・・・。
おぞましく、同じ人間とは思えない行為が繰り返されていた建物
この左の建物では名前は忘れたが、
一人の医者が権力の元に若い女性ばかりを集めて人体実験、そしてひどい事をしていた。
その横には銃殺刑の壁が今でも残っている。
花はいつも新鮮なものが献花されている。
厳しい夏、冬を狭い部屋に押し込められて過ごさなくてはいけなかったアウシュビッツ強制収容所
この一つのベッドに何人ものユダヤ人が重なって寝ていた。過酷な労働と少ないご飯しか与えられないのに寝ることもままならず・・・。
こんな狭い部屋に何十人もの人が厳しい夏、冬を過ごしていた。
労働者の多くの亡くなった方の写真があったが、年齢はみな様々だが
1ヵ月後、または長い人で1年後
に亡くなっていた。
ある衝撃的な写真が目に焼きついた。それは女の人の入所前と3ヵ月後の写真。
入所前はふくよかな体重60キロの人が、たった3ヶ月で32キロの体重に。
実験の前に女性はここで裸にされた・・・・。そしてあの銃殺刑の壁に立たされた。
もう目を覆いたくなるような、とても30代の人をは思えない写真だった。
その他の写真もみなわずか短期間で、体重がものすごく減ってガリガリの骨と皮だけの写真。
12時間労働に加え、食事とよべないほどの朝と夜だけのご飯。
労働は過酷を極めた。
そんな環境、人として扱われない事が極限までに痩せさせ、人を死に追いやった。
どうしてここまでヒドイ事ができるのだろうか?
動けなくなった者は同じ強制収容所の労働者の手により、24時間フル稼働で火葬させた。
このアウシュビッツ強制収容所の火葬場は24時間フル稼働していた。
そして動けなくなったもの、
つまりは死を迎えた者
を同じ仲間に運ばせ、
あたかもライン作業のように24時間稼動で遺体を燃やした。
火葬場は4つあったが常にフル稼働しなければ追いつかなかった。
それほどまでに人を殺してきた。
もうここまで見学して
正直人間ってなんなの?
って思った。
感情がなくなるとこうまで残酷なことができるのかと。
それとも「やらなければやられる」の精神で慣れてしまったのか?
誰も止めることができなかったのか?
そしてモウ一つのアウシュビッツ・・・。
第二アウシュビッツと呼ばれている「ビルケナウ」
電車で運ばれてきた人はこのゲートから二度と元の世界に戻れなかった「ビルケナウ」
ビルケナウ強制収容所はものすごく広大な土地に転々と建物が残っている。
ここもソ連軍が開放するまでに数百万人の命が奪われた場所。
列車に乗って「死のゲート」をみなくぐってきた。
あの「死の門」をくぐり、このホームに降り立った後に「選別」があった・・・。
みな電車でこの「死の門」と呼ばれるゲートをくぐってきた。
そしてホームに降り立つと先に述べた「選別」が始まる。
今その場に自分がたっているのが恐ろしく感じた。
もし産まれてきた場所、時代が違えば、ここに自分も立っていたのかもしれない。
その先の地獄をまったく理解してない状態で。
ビルケナウ強制収容所には世界各国の文字で書かれた慰霊碑があります。
世界各国の言葉で慰霊碑があるビルケナウ強制収容所
ここに「各国の亡くなった方の追悼」で「各国の言葉で慰霊碑」が建っている。
すべての人が同じ気持ちなのだろう。
二度と同じ過ちを繰り返さないため。
そして「アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所で起きた悲劇をいつまでも忘れない為に。
ビルケナウ強制収容所。悲惨な光景は今もその気持ちを風化させないように残っている。
ここはソ連軍によって破壊されたビルケナウ強制収容所の火葬場、ガス室
この破壊された建物は火葬場。
いったい何人の人がここでただ燃やされたのか。
これだけのただ狭いバラックに300人が生活していた。
一人に与えられたスペースはただ横になれるだけのもの。
厳しい夏、冬に加え、十分でない食事と過酷労働。
それは紛れもなく命を刻一刻と削っていったんだろう。
戦争の悲劇は忘れてはならない。風化させてはいけない。アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所を見て考えさせられました。
アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所で行われた悲劇は二度と繰り返してはならない・・・・絶対に・・・。
ただ文字でしか習っていなかった事実。
この目で、耳で感じたことは一生忘れないだろう。
この悲惨な出来事、場所を。
なぜ人間はいとも簡単に人を殺せるのか?
もう2度とこのような悲惨なことを繰り返さないで欲しいと願います。
戦争という愚かな争いを・・・。
今日のコーラ
・二度とこんな事があってはならないと思う。