昔々、日本人が移民して切り開いた土地。
そしてここパラグアイにいるのに日本が味わえる土地。
それがイグアス居住区なのです♪
今日は「パラグアイの日本人宿のペンション園田でイグアス居住区の移民について学んだ事」を紹介するよ♪
パラグアイのイグアス居住区はまるで日本!ペンション園田が居心地よすぎる!
パラグアイの「イグアス居住区」は、旅人の間では「日本を感じられる場所」として有名なんです。
もう大好きになっちゃいます♪
パラグアイのイグアス居住区といったら有名日本人宿「ペンション園田」
ここパラグアイの有名な日本人宿といったら、「ペンション園田」
日本人の間で有名な、「居心地のいいとってもいい宿」なんですよ♪
もちろんマンガから本から、そしてキッチンもあって沈没できるわ(笑)
ペンション園田の園田さんからイグアス居住区の歴史を学ぼう!
イグアス居住地って何?そもそも移民って何?
そんな状態のボクだったので、そこを知らなければパラグアイのイグアス居住区に来た意味がない!!
いや日本食を食べれるのだけでも意味はあるんだけど・・・・(笑)
ここのペンション園田のおじいちゃんに、日本人会館に連れて行ってもらいました。
パラグアイの移民とはイグアス居住区の歴史とは?
ペンション園田のおじいちゃんに連れてきてもらった日本人会館。
ここでボクらは「どのようにして移民の方がパラグアイに来たのか?」その開拓の歴史を学びます。
そもそも南米でよくいわれているブラジル移民とは?
そもそも移民とは?
第二次世界大戦より前に始まった南米への移民の動き。
最初はブラジルからはじまり、その後ブラジルへ移動した日本人の手によって「パラグアイへの移民政策」が始まりました。
それは1936年から始った。
そして第二次世界大戦後、本格的に増えてきたとのことでした。
当時どのような方が移民として南米にやってきたのか?
当時どんな人が移民として南米にやってきたのか?
第二次世界大戦敗戦後引揚者として日本に帰ってきたが、当時の日本はまだ敗戦後で職もなく、食べ物すらままならない状態で日本で住むことができなくて、政府の甘い、理想郷があるという言葉でつれて来られた人たちだったのです。
エネルギーがディーゼルからガソリンに移行した事により、日本に数々あった炭鉱、特に福岡、高知、兵庫などの人々が新たな仕事を求め、新天地に移動してきた人でした。
みんな移民としてきた人は、そこに新たな新世界、夢と希望を持って、都会にくる感じできたそうです。
日本から遠く離れた南米の理想郷は過酷な世界だったのです。
船で2~4ヶ月かけて、日本から遠く離れたこの南米の地にやってきました。
パラグアイへの移民は、ブエノスアイレスから列車でエンカルナシオンにまず着きます。
そこから車で移住地に移動したのだが、そこはちゃんとした土地ではなく、原始林に覆われた、ただの赤い土の道路があるだけの世界だったのです。
移民の人達は土地、家が用意されているわけではなく、すべて0からスタートしました。
木を切り倒し、野焼きし、土地を更地にし、木を組み合わせ、ヤシの葉で屋根を作り、やっとのことで小屋を建てて住むところを確保して切り開いた生活。
それはそれは日本で暮らした方が何倍もマシな生活だったそうです。
衣食住すべてない状態から初まった生活。
それは「想像も絶する過酷な生活」だったそうです。
それでもみんなで力を合わせて作ったこともない家を、木と切り倒し、組み合わせ、協力してその土地、家を作っていたんだとのことでした。
だが時に貧しい生活は強盗、殺人という事件もコミュニティ内で起こっていたという悲しい裏側も、園田さんは教えてくれました。
移民の方々の努力 生きるためにこの赤土から農作物を作る
そして次に移民の方達はこの赤土で農作物を作り始めたとのことでした。
最初はなかなかうまくいかなかったけど、だんだんとできるようになった作物。
最初は現地のパラグアイの方にも受け入れられなかったモノが、だんだん日本人の礼儀正しさ、謙虚な姿勢、誠実な対応により、パラグアイの人々にとって日本人は特別な存在になっていた。
それは第二次世界大戦でパラグアイが連合軍について日本と国交断絶しても、今までの日本人の評価により移民の方々は責められる事はなかった。
日系人ではなく、日本人なのです。
そうして始った移民の歴史。
日本では日系人と呼ばれるていますが、現地の人はその呼び方を嫌います。
彼らはれっきとした日本人なのです。
移民の方の中には花嫁候補として行った子が、船の中で別の人に恋に落ちるということもあったみたいです(笑)
でもそうして2世代目、3世代目として引き継がれ、パラグアイの農業、経済と引っ張ってきた移民の方々の努力と信頼。
日本の文化などを通じてパラグアイの人々と交流をし、信頼を築き上げた人々。
だが日本の組合の依頼により苦労して作った作物は「傷がある」、「品種的に合格点でない」とつき返し受け入れなかった日本政府
同じ日本人なのに、移民の方々は日本政府の甘い言葉で他国に出されて、そして日本から受け入れられないという現実にあってきたのです。
でも、この「日本政府が受け入れなかった作物」はパラグアイの人々に受け継がれ、野菜をとらなかったパラグアイの人々に野菜の文化を広めたのでした。
初めて知った移民の事。そしてイグアス居住区は日本の歴史が詰まっている居心地いい場所です
道路も整備され・・・・・。
JAICAの方の支援により、発展し続け・・・。
教育機関、市役所など行政区間も整備され、今のイグアス居住地があります。
大して知識のなかった移民についての事を学べたのは本当に感謝するばかりです。
初めの移民の方がどれだけ苦労してこのイグアス居住区を作ったのか?
日系人として学んできた人々の本質を知ることができました。
それだけでもイグアス居住区に来た価値がありました。
ここに書いた事により、読んでいる方にも移民について少しでもわかっていただけたらと思います。
これなんだと思います?
ガラスを切る工具なんだけど先端はダイヤモンドなんですよ!饅頭用の・・・・・おたふくもいるよ!!!(笑)
さて今回はマジメな記事を書きましたが、次回は日本食特集!!!(笑)飢えた旅人のみなさん!ごめんなさい(笑)
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パラグアイのイグアス居住区は日本?世界一周で絶対食べたい日本食で納豆まで!?
苦労してパラグアイにやってきた移民の方達。 その方達が築きあげたイグアス居住区は、とても居心地のいい地域なのです。 まる ...
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イグアス居住区の日本人宿情報 ペンション園田
2段ベッドドミトリー:7ドル
ダブルベッドドミトリー:8ドル
個室(エアコン、トイレ、バス付):15ドル
WiFi快適。トイレ、シャワー共同、キッチンあり!
もう日本かというくらい寛げます♪赤土に囲まれて、日本人の仲間とBBQやったり、洗濯の脱水機もある、とっても居心地のいい宿でした♪
今日のコーラ
残りあとわずか!!頑張ります!!